おはようございます。
前回(自己紹介①)の続きとなります。
「レーシングスクール」そこに行けばレースが出来るんだ!
そう思った僕はどうしてもその類のものに参加したくなりました。
(※今ではそんな事思いませんけども・・。)
色々調べた結果出てきたのが、ENDLESSというパーツメーカーのフォーミュラカーのオーディション。
そう、当時の僕はF1に魅了されておりフォーミュラ以外考えられなかったのです。
ただそこには大きな壁が。
僕の親はレース等危ないから絶対にやるな。というタイプの人間です。
そこを説得するところからのスタートでした。
意を決して話すものの当然承諾してもらえず必死に訴えかけたことを覚えております。
ここで引いたら終わり。
感情むき出しで説得を試み、最終的には泣いて土下座したのを覚えております。
それくらいにレースというものを、フォーミュラというものを自分で体験したかったのです。
このオーディションだけの約束でどうにか許しを貰った僕は、期限ぎりぎりで応募。
当時沖縄のレーサー志望なんて珍しかったのでしょう、書類審査を通過し東京・池袋で面談へ。
そこで東は筑波、西は鈴鹿と分けてのオーディションで希望も聞かれました。
すると、西担当の老舗「レプリスポーツ」の舘代表がこう言ってくれました。
『鈴鹿でやるなら面倒みてやる』と言われ鈴鹿でやることを決め、面接審査を合格する事が出来ました。
そして、そこから半年かけてのオーディションが始まります。
結果から言うと、資金なし・経験なし・才能なしの僕には争うことすら無理でした。
近くに住んでいる方は月2回は乗っていて僕は、給与を全部注ぎ込んでどうにか月1回・・
それも初めてのサーキット走行の際には、フォーミュラカーの低さ、サーキットの平坦さもありどこに進めばいいのかもわからずゆっくり走っていて先述の舘代表に心配されるほどでした。
舘代表には一緒に不動産巡りをして頂いたり、フェリー乗り場まで連れて行って貰ったりと大変お世話になりました。
あの方がいなければ僕が今ドライバーを続けていることはあり得ませんでした。
本当に感謝しかありません。ありがとうございます。
そういった経緯がありレースの世界に入りました。
その後の活動に関しては長くなるのでまた改めて機会を設けて書いていきたいと思います。
次回は、『ハウスカレーシング設立の経緯』について書きたいと思います。
お読み頂きありがとうございました。
コメント